i-Podに様々な曲を入れてドライブ中に聞いています。
その中には世界の愛唱歌などというのも入っていて、“故郷の人々”とか“おお牧場はみどり”というのも時々演奏してくれます。
それを聴いていた助手席の女房は半ば、ばかにしながら、あんた、そんな歌、いまの若い子はだれも知らないよといいます。
えっ、こんな有名な歌を知らないのと私が驚くと、だって、音楽の時間なんか削られて、そんな歌は学校で習わないよといいます。
そうか、それは寂しいな、情緒のある歌なのにな。
話は替わります。
先日、日経メデイカルという雑誌を読んでいると(日経ビジネス、ヘルスケア、エコノミスト、ダイヤモンド、東洋経済、Wedge、
週刊朝日、文春、新潮、newsweek日本版、Foresight、選択などなど雑誌を読むのが好きなのです)、
「吉良上野介を助けた南蛮流外科医の外傷治療」というおもしろい記事が出ていました。
誰もが知っている有名な松の廊下の話ですが、実際の生々しい記録が実在するとは夢にも思いませんでした。
記事の作者は整形外科医兼作家の篠田達明という先生で、抜粋すると、
「元禄14年(1701年)3月14日、江戸城本丸松の廊下で赤穂藩主浅野内匠頭が突然短刀を抜いて高家筆頭の吉良上野介に斬りかかった。
驚いた上野介が振りむくと、さらに刀を浴びせて眉間を割った。内匠頭は直ちに取り押さえられ、上野介は駆けつけた高家衆に支えられて別室に運ばれた。
幕府医官の津軽意三と坂本養貞が応急処置をしたが出血が止まらない。そこで外科医の栗崎道有を呼び出すことにした。
道有は江戸で南蛮流外科を開業していたが、腕を見込まれ表御番医師に任命されていたのである。彼は湯島天神下の商家に往診中だったが、
召し出しを受けると急いで江戸城へ駆けつけた。大手門は大変な混乱状態で、通知状を見せてやっと入ることができた。
このときの道有が行った上野介の治療は「道有日記」に克明に記されている。
上野介の傷は二カ所あり、額の切創は斜めに走る長さ三寸五、六分(約11センチ弱)のもので、眉の上は骨まで達していた。
もう一カ所は背中の傷で、こちらは比較的浅手だったが、それでも長さは六寸余(約20センチ)あった。
まず、額の傷に熱湯をかけて温めながら洗い、小針小糸を用いて六針縫った。縫い終わって石灰を混ぜた煉薬を塗り、傷口を塞いだ。
背中の傷は三針縫合しただけで済んだ。こちらも額と同様、煉薬を塗り込めた。これらの処置により出血はようやく止まった。」
この記事を見てわたしは大変感激しました。
300年前の出来事がきちんと記載されていて、かつ、縫合技術があったんだ、すごいと思いました。
さて、翌日。わたしはクリニックの昼休みに、若いスタッフに、「あの松の廊下の吉良上野介の話さー」としゃべりかけました。
しかし、きょとんとしているので、「ほら、赤穂浪士の話じゃないか」というと、先生、それって、何のことですか、というので、
思わず椅子からすべり落ちそうになりました。ええっ、赤穂浪士の話知らないの?というと、聞いたことありませんとのたまうではないか。
そこでひょっとしてと思って、別の若いスタッフに聞くと、わたしも知りませんという。
いやーびっくりした。歌だけでなく歴史の知識にも若い人とはギャップがあるんだ。
しかし、うちのスタッフと同じような子たちにインフォームドコンセントをして、手術をしているんだと思うと、
自分の常識が若い子の常識ではないということをふまえて話をしなければいけないんだと思う今日この頃です。